大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

最高裁判所第一小法廷 昭和53年(オ)483号 判決 1978年6月29日

上告人

河村進

右代理人

井門忠士

被上告人

エリンダ・ドローリス・河村こと

エリンダ・ドローリス・セバイオス

右代理人

阪本政敬

被拘束者

河村真利

主文

本件上告を棄却する。

上告費用は上告人の負担とする。

理由

上告代理人井門忠士の上告理由第一点、第三点及び第四点について

所論の点に関する原審の認定判断は、原判決挙示の証拠関係に照らして是認できないものではなく、その過程に所論の違法はない。論旨は、ひつきよう、原審の専権に属する証拠の取捨判断、事実の認定を非難するものにすぎず、いずれも採用することができない。

同第二点について

意思能力のない幼児を手元において監護するときは、当然幼児に対する身体の自由を制限する行為を伴うものであるから、その監護自体をもつて人身保護法及び同規則にいう拘束にあたると解して妨げなく、このことは、右監護が法律上監護権を有する者によりされているか否か、あるいは、愛情に基づくものであるか否か、又は幼児の感情にかなうものであるか否かとは関係がないものであること及び夫婦関係が破綻しているときに、夫婦の一方が他方に対し人身保護法に基づき共同親権に服する幼児の引渡を請求した場合には、夫婦のいずれに監護させるのが幼児の幸福に適するかを主眼として幼児に対する拘束状態の当不当を判定し、その請求の当否を決すべきであることは当裁判所の判例の趣旨とするところである(昭和二三年(オ)第一三〇号同二四年一月一八日第二小法廷判決・民集三巻一号一〇頁、同三二年(オ)第二二七号同三三年五月二八日大法廷判決・民集一二巻八号一二二四頁、同四二年(オ)第一四五五号同四三年七月四日第一小法廷判決・民集二二巻七号一四四一頁参照)。

ところで、原審の適法に確定した事実によれば、上告人及び被上告人の共同親権に服する被拘束者は、上告人によつて監護されるより被上告人によつて監護されるのが幸福であるというのであるから、上告人による被拘束者の監護は、人身保護規則四条にいう拘束が権限なしにされ、又は法令の定める方式、手続に著しく違反していることが顕著な場合にあたるということができ、したがつて、これと同趣旨の見解のもとに被上告人の本件請求を認容すべきものとした原判決は正当であつて、原判決に所論の違法はない。論旨は、採用することができない。

よつて、人身保護規則四二条、四六条、民訴法九五条、八九条に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

(岸盛一 岸上康夫 団藤重光 藤崎萬里 本山亨)

上告代理人井門忠士の上告理由

第一点 <省略>

第二点 原判決には人身保護法第一条、第二条、人身保護規則第四条の解釈を誤つた違法があり、右違背が判決に影響を及ぼすこと明らかである。

一、原審は、本件の如く夫婦関係が破綻している場合に、夫婦の一方が他方に対して人身保護法、人身保護規則に基づき、その共同親権に服する幼児の引渡しを請求するときの当該幼児に対する拘束状態が不当なものであるか否かの判断は、夫婦のいずれに監護させるのが当該幼児にとつて幸福であるかを主眼として定めるべきを相当とすると判示している。

さらに原審は、拘束の顕著な違法性の判断の基準として、拘束者が被拘束者を拘束するに至つた際の手段、方法の評価も副次的に用いられると判断している。

二、しかしながら、原審の右判断には、重大な解釈の誤りが存すると考えること、以下のとおりである。

1 人身保護法第一条は、「この法律は、基本的人権を保障する日本国憲法の精神に従い、国民をして、現に、不当に奪われている人身の自由を、司法裁判により、迅速且つ容易に回復せしめることを目的とする」ことを、明らかにしている。人身保護法がわが国に於て、新憲法の下で初めて定められたのは、明治憲法が臣民の自由を保障し、明治憲法下の法律が臣民の自由を保護するために、努力を払つて来たにも拘らず、人権蹂躙の声が絶えなかつたことに対する真摯な反省に基づき、国民の身体の自由の保障を実現すべき適切なる救済方法を有すべきものとして、日本国民が嘗て持たなかつた劃期的な規定として、制定せられたものである。それだけに本法による身柄への規制力は、強力であり、その適用を誤れば、かえつて法本来の目的に反し、拘束者は勿論、被拘束者の基本的人権を損う可能性もある。従つて、人身保護法適用にあたつては、第一条に定める拘束の不当性についての判断基準と不当な拘束の現在性判断の基準に対する適正な解釈が極めて重要となるのである。

2 ところで、親権を有する、あるいは、実の親子関係を有する成人が、幼児を平穏裡に愛育している場合、その幼児に全くの自由意思が認められないとして、監護事実が即ち拘束と法的には看做しうる場合であつても、その拘束は、本来、拘束者にとつても、被拘束者にとつても、国家の介入を許さない超法規的な自然法的拘束関係であり、その拘束が、幼児の基本的人権を侵害する恐れがある等の特段の事情の認められない限り、その拘束に、「不当」性の概念が入る余地はないと解すべきものというべきである。言いかえれば親が幼児を監護している状態は、特段の事情のない限り、その拘束は、常に、法律上は、正当な手続による身体の自由の拘束と看做されるべきものである。特に、人身保護法上の救済手続は、人身保護規則によつて、請求の要件にしぼりかけられており、その慎重な行使が法令上も、明確にされているのであるから、右法意の下で親子間の拘束状態に人身保護手続を適用するに当つては、幼児の拘束の不当性を解釈する基準については豊かな感情と複雑な心理を有する人間性への十分慎重な配慮がなされなければならない。

3 人身保護規則第四条は、「法第二条の請求は、拘束……が、その権限なしにされ又は法令の定める方式若しくは手続に著しく違反していることが顕著である場合に限り、これをすることができる」と定め、又、同条但書きは「他に救済の目的を達するのに適当な方法があるときは、その方法によつて相当の期間内に救済の目的が達せられないことが明白でなければ、これをすることができない」と定めている。実親が自由意思能力の全くない幼児を拘束している状態は、その実親の親権が剥奪されている等、特段の事情のない限り、その拘束が、権限なしにされ又は法令の定める方式若しくは手続に著しく違反していることが顕著である場合には、全く該当しないと云わざるを得ない。従つて、本来、親権者が、平穏に幼児を監護している場合には、人身保護手続による救済の余地は、ほとんどなく、又仮りに余程の特別事情があつて、拘束の不当性が顕著であつても、人身保護規則第四条但書によって、すなわち、他に救済の目的を達するのに適当な方法があるときに該当するとされ、人身保護手続による救済は、認められないことが予測されるのである。

4 ところで従来の判例は、本件の如く、夫婦の一方が他方に対し、人身保護法に基づき、その共同親権に服する幼児の引渡を請求した場合には、人身保護法第二条にいう「拘束の違法性」を「幼児を夫婦のいずれに監護させるのが幼児のために幸福であるかを主眼として判定すべきである」と判示してきたことは周知の事実である。成程、両親権者が幼児を奪い合う状況があり、その紛争状態が、実力行使の応酬となつて、これが為に幼児自身の基本的人権が重大に損われる虞がある場合、国家がこれに緊急に介入する手段として、「拘束の違法性」を右判例理論で修正して人身保護請求手続による救済の余地を認めて来たことは、紛争解決を迫られる司法裁判所の貴重な智恵であつたであろう。右判例理論により、過去幾多の紛争が、妥当に解決されて来たであろうことは、想像に難くない。

しかしながら、一方で、右判例理論は、その適切な行使を誤つた場合には、人身保護手続が極めて強力な国家権力の介入手段であるだけに、幼児を幸福にするどころか、逆に非常な不幸に陥れる恐れも十分にあつたのである。

すなわち、裁判所が、親権者の主張や感情に不当にも惑わされて、幼児自身の利益への配慮なり判断に適切さを欠いた場合、拘束者に極めて深刻な打撃を与えるのみでなく、被拘束者自身にも回復し難い侵害を与える可能性が非常に大きく存在するのである。現に、上告代理人が原審に於て提出している疎乙第十一号証の一・二で島津一郎一橋大学教授が引用しているいくつかの判決には、そうした事態が現実のものとなつていることを示しているのである。

従つて、従来の判例理論を使用するとしても、それの持つ陥り易い欠陥を修正する要素を慎重に選択し、理論的に明確化して行く必要がある。右努力を怠り安易に判例理論を適用して、判例理論の欠陥を現実化する裁判は、憲法第三一条、三二条に違反し、さらに憲法第三六条で禁止している公務員による拷問とも云うべきものとなろう。では従来指摘されて来た判例理論の欠陥を導いている要素は何であろうか。それこそが正に原審に於て上告代理人が主張し、乙第十一号証の疎明資料でも示しているところの、「子の利益」の実体に関する価値基準の撰択の適否である。従来の多数の判例が「幼児のための幸福」と判断する際に実際に用いた価値判断基準は、子に対する愛情、養育意思、経済的養育能力、監護能力親子の将来の生活設計、生活環境等であつた。右価値基準のうち、子に対する愛情、養育意思、生活環境などは、両親いずれにも軍配を上げにくい場合が多く、そうした場合、裁判所は、往往にして、父親側の経済的養育能力の優位と、母親側の監護能力の優位とを比較し、幼児は生母に監護されるのが望ましいとの一般論を採用して母親側に軍配を上げるか、あるいは、父親側の経済的養育能力を高く評価し、子の将来の設計の点で父親側に軍配を上げるかを、選択してきたように見受けられる。但し父親側に軍配を上げる場合、父親側には、母親に代替しうる事実上の監護者の存在が認められている場合が多く、そうした場合には、必ず、監護能力に於ては、父母に優劣なしと断りをつける傾向にあり、逆に、母親側に軍配を上げる場合には、父親側に母親代替者がいても、老齢等の理由付けをして、その監護能力を無視するという論理を用いている傾向が強い。こうした論理を見ると、裁判所の判断は、裁判官がそれぞれの親に対して、好感を抱いたか反感を抱いたか等の極めて、判断過程を客観的に把握し難いところで、結論が出され、判決理由は、先行する結論に合せて、つじつま合せ的に示されているのではないかとさえ思いたくなるのである。こうした従来の判例の選択には、何か重大な欠落があつたのではなかろうか。この疑問は、人身保護事件の判決言渡後の法廷で、被拘束者が請求者に引渡されるのを、全身の抗議によって示すという事案が繰り返される度に、関係者の中で繰り返し持たれて来たのではあるまいか。右欠落とは何か。それこそ正に、従来の判例は、子の利益を判断基準にすると文言上では述べつつも、実際の判断に於ては、子の利益として最も重要な子供自体が有する意思、感情、人格を、極めて過少評価し、もつぱら双方の親権者の意思、感情、人格等に判断の比重を置きすぎて来たという点につきるのではあるまいか。上告代理人が原審における昭和五三年二月二七日付の準備書面で主張しているのは、正にこの点であり、原審で、児童心理の臨床家の鑑定を申請した意図も正に右の点で裁判所に従来の判例理論に修正を求めたかつた為である。幼児の幸福に取つて最も基本的であり且つ身近な、あるいは、緊急に必要不可欠なものは、幼児が自分は愛されているとの認識を自分自身で持ちうるような監護者の存在であり、人格形成期として重要な幼児期に、幼児の主体性を抜きにしては考えられない適切な刺激関係、愛情関係を、継続的に与えうる監護者の存在を、「幼児に回復してやること」、あるいは、「幼児から奪い取らないこと」、これこそが子の利益の第一位に評価されるべき価値基準と認めるべきである。しかも、右監護者の存在は、人身保護請求手続が提起された時点を中心にして、その時間からそれ程前後に離れていない比較的短い時間単位の中で、そうした幼児の心理的に形成されている親子関係を認定すべきである。それが、少々親族法的な、権利関係にそぐわない場合においてでも、まず幼児の健全な成長を確保し、幼児の成長を待つてから、親族法的な、見地から法秩序の整序を図るという態度こそ、文字通り子の利益の為の監護者の決定というべきであろう。こうした判断基準を採用して初めて、従来の判例理論を媒介とした人身保護法、同規則は、適法な解釈ということになるものと、思う。

5 従つてもし、右判断基準の適用により、現在の拘束状態が、幼児の心理的親子関係として、既に強固に安定した形で定着していると見られる場合には、裁判所は、人身保護規則第四条の関係では、必ず、「拘束の違法性が顕著である」との要件を満さないものと判断しなければならず、それは幼児の取り合いに人身保護法、人身保護規則を適用する為の法的要件と解すべきである。

6 原審は右に述べた人身保護法、人身保護規則の解釈を誤つていること明らかであり、右違法が判決に影響を及ぼすことは、判文上明らかであるから、原判決は破棄されるべきである。

第三点 <省略>

<参考・原審判決>

(大阪地裁昭五一(人)第八号、人身保護請求事件、昭53.3.8第二〇民事部判決)

〔理由〕

一 当事者間に争いのない事実

請求の理由1、2の事実、拘束者が請求者との婚姻後屡々家を空けることがあつたこと、請求者が日本語をほとんど解さないこと、請求者と拘束者との婚姻生活が破綻したこと、請求者が昭和五一年(一九七六年)三月ころ拘束者とともに請求者の肩書地所在の請求者の両親方を訪問しその機会に拘束者との別居を決意し拘束者のみが日本に帰つた後も米国に留まり、同所で被拘束者を監護養育していたこと、拘束者は同年六月二日(現地時間)被拘束者を日本に連れ帰り以後肩書地で被拘束者を養育していること、米国判決のあつたこと、及び昭和五二年(一九七七年)一二月二二日同判決に基づき我が国の戸籍上、請求者と拘束者が離婚し、被拘束者の親権者を請求者とする旨の記載がなされていること、以上は当事者間に争いがない。

二 本件の経緯

<証拠>を総合すると、次のことが認められる。

請求者は米国の国籍を有する者、拘束者は日本国籍を有するものであるところ、拘束者は、昭和四六年(一九七一年)一月米国に渡り、同国カリフォルニア州で働くうち、請求者と知り合い、同年六月ころから同国同州において請求者と同棲生活を始め、昭和四八年(一九七三年)一一月日本で結婚するため、請求者を伴つて帰国した。そして拘束者と請求者とは同年一二月二日東大阪市で結婚式を挙げ、そのころ米国領事館に届出するとともに同月二六日我が国戸籍法により婚姻の届出をした。拘束者の両親は、請求者の来日前は拘束者夫婦との別居を予定していたが、請求者が日本語を解さないことによる生活の不便を慮り、同居することにし、以来拘束者と請求者は拘束者の肩書地所在の右両親の居宅で共同生活を続けた。拘束者は帰国後、昭和四九年(一九七四年)一月末ころ、ようやくにして海外(主として韓国、東南アジア)旅行の斡旋を業とする会社に職を得て、同年九月末同会社の倒産するまで一か月約六万五、〇〇〇円の収入があつたが、同会社倒産後一時失業し、昭和五〇年(一九七五年)四月ころになり、自らA・P・エアワールドサービスを創設して主として米国方面の旅行の斡旋をし、一か月約一二万ないし一三万円の収入があがるようになり、その間請求者も英会話を教えるなどして一か月八、〇〇〇円ないし二万四、〇〇〇円のアルバイト料を得ることができたけれども、生計の中心は富子がなし、拘束者夫婦は経済的には拘束者の両親に多くを依存していた。請求者は来日当時既に被拘束者を身ごもつていたが、請求者をはじめ家族一同これに気付かず、挙式後暫くして漸く気付いたのであるが、富子は、請求者が妊娠に気づくまでの間に多量の風邪薬を服用したことの影響を心配し、拘束者は、右事情に加えて拘束者夫婦の生活が経済的不安定なことから、請求者に対しそれぞれ妊娠中絶を勧めたが、請求者は拘束者の両親も経済的事情から請求者が子を生むことを望んでいないのだと不満に思つていたが、結局医者も既に妊娠六か月であつたため中絶手術をせず、請求者は昭和四九年(一九七四年)五月一日、被拘束者を出産した。

その後被拘束者の養育に関し、拘束者の両親は、日本での生活になれない請求者のため、何かと手助けをしてやり、拘束者の父河村忠すらも被拘束者を入浴させてやる等していたが、請求者にとつてはそのことが被拘束者を拘束者の両親に取り上げられたかのように思われ不満であつた。その上拘束者が仕事の都合などで帰宅が遅くなつたり家を空けることが多かつたため、これを問いただす請求者に対し履々暴力沙汰に及ぶなどしたため、請求者の不満は益々高じて、日本での拘束者と請求者との婚姻生活は破綻に頻するに至つた。

請求者は、日本に来る前に拘束者との間で将来また米国にて生活する旨の話合いをしていたこともあつて、昭和五一年(一九七六年)三月、拘束者が仕事の関係で米国へ行く機会を利用し、被拘束者を請求者の両親にみせに行く、いわゆる「里帰り」にことよせて米国に帰ることを決意し、拘束者の両親らに対しては、反対されたり、悲しませてはいけないとの配慮から、「被拘束者の二才の誕生日までには日本に帰る」といいながら、被拘束者を伴つて渡米し、請求者の肩書地の両親宅に滞留するに至つた。その間請求者は何度となく拘束者と米国で夫婦共同生活をするよう話合いをしたが、拘束者の態度は甚だあいまいであつた。しかし結局両者は、拘束者が日本でお金を溜めて米国に来て共同生活ができるようになる迄暫く別居しようということになり、拘束者は昭和五一年(一九七六年)四月、米国での仕事を終えて帰国したが、請求者は同行せず、被拘束者とともに米国に留まつた。しかし拘束者の帰国後、拘束者の母富子は請求者に対し被拘束者を連れて日本に帰るよう電話連絡をするなどしたが、請求者が応じなかつたため、拘束者は同年五月再び渡米し、請求者に対し被拘束者とともに日本に帰り一緒に生活するよう説得に努めたけれども、請求者の意思は固く、拘束者が米国に居住することを求めて、どうしても説得に応じず、拘束者も両親を残して渡米し、米国で生活をすることを拒否したため、拘束者と請求者との同居の見込は全くなくなつてしまい、婚姻生活は遂に破綻した。そこで拘束者は昭和五一年(一九七六年)六月二日午前八時(現地時間)ころパジヤマ姿のままの被拘束者を、請求者が庭で犬の鎖をなおすために目をはなしている隙に、請求者の姉には被拘束者を近くの店まで菓子を買いに連れて行くと告げて連れ出し、空港へ行く途中、被拘束者を日本より持参した服に着替えさせたうえ、その前日駐ロスアンジエルス日本総領事館において別に発行を受けていたパスポートを利用して被拘束者を日本に連れ帰り、以来肩書地の住居で両親と同居して被拘束者を監護養育しているのであるが、一方請求者は、拘束者が被拘束者をひそかに連れて日本に帰つたことに憤慨し、離婚を決意するとともに被拘束者を取り返すため、ただちに請求者の住所地のある米国カリフオルニア州ロスアンジエルス郡上位裁判所に拘束者との離婚を求める訴を提起した。

被告である拘束者は応訴しなかつたけれども、右ロスアンジエルス郡上位裁判所は、昭和五一年(一九七六年)一一月一八日(現地時間)、(一)請求者と拘束者との婚姻を解消する(二)被拘束者の親権者(監護権者)を請求者とする(三)拘束者に被拘束者の養育料として週五〇ドルの支払を命ずる、等を内容とする離婚中間判決(Interlocutory Judgment)をなし、さらに翌昭和五二年(一九七七年)二月ころ同内容の終局判決をなし、右判決は同年三月一日判決集に登録され、そのころ確定した。よつて同判決に基づき我が国戸籍法上の離婚の届出がなされ、昭和五二年一二月二二日、請求者と拘束者の離婚、被拘束者の親権者を請求者とする旨の戸籍の記載がなされた。

本訴係属中の昭和五二年(一九七七年)七月四日、請求者と拘束者との間で一旦、(一)請求者と拘束者は離婚する(二)被拘束者を拘束者が一年に一ケ月は自己の監護下におけることを条件に請求者の監護に委ねることとして請求者に引き渡す、被拘束者を請求者になじませるため、請求者が来日するまでの暫くの間、拘束者の父河村忠の所有する三重県名張市富貴ケ丘二番町七二番地所在の住宅(以下、「名張の家」という。)において、拘束者を除いて、拘束者の両親、請求者、レイモンドが被拘束者と共同生活する旨、主たる内容とする話合いが成立し、その後一〇日余りにわたり右話合いによる名張の家での生活がなされていたのであるが、拘束者は右話合いでは名張の家には行かないということであつたにもかゝわらず、屡々行つては宿泊し、請求者に対し、「愛しているから日本で夫婦共同生活をして欲しい」旨求めたが、請求者の承諾を得られなかつた。そして昭和五一年(一九七六年)七月一九日、拘束者が被拘束者を初感染結核の検診に連れて行こうとしたのに対し、請求者は再び自分のもとに被拘束者がかえされないのではないかと気づかつて拒絶したことをきつかけとして、拘束者は前記話合いを反故にして請求者及びその父レイモンドのすきをみて被拘束者を名張の家より連れ去り、その後は請求者には被拘束者の所在を告げず、全く会わせようとしなかつた。

以上が認められ、証人河村富子(第一、二回)の証言、請求者及び拘束者本人尋問の結果(各第一、二回)中右認定に反する部分は信用できず、他に右認定に反する疎明はない。

三 被拘束者に対する親権(米国判決の効力)

1 我が国の民事訴訟法二〇〇条一号は、外国離婚(附随してなされた子の親権者指定も含む)判決にも適用され、外国離婚判決が同条同号の要件を欠くときは、我が国においてはその効力を否定されると解すべきである。そして離婚の国際的裁判管轄権は、原告が遺棄された場合、被告が行方不明の場合その他これに準ずる場合のほかは被告の住所地国にあるとして扱うべきを担当とするところ(最判昭和三九・三・三・二五民集一八巻三号四八六頁参照)、本件において、米国判決の被告である拘束者の住所は昭和四八年(一九七三年)一一月以来現在迄引続き我が国にあり、かつ原告たる請求者が遺棄された場合、拘束者が行方不明の場合その他これに準ずる場合に該当するものでないことは前示認定の事実から明らかである。

2 そうすると、米国判決は我が国の民事訴訟法二〇〇条一号の要件を充足していないので、我が国においてはその効力を承認され得ないものである。したがつて、請求者と拘束者とは法律上依然として婚姻中であり、被拘束者は請求者と拘束者の共同親権に服しているといわなければならない。

四 拘束者、被拘束者及び請求者の現状

1 <証拠>を総合すると、以下のことが認められる。

(一) 拘束者は、現在肩書地所在の父忠(五八才)の賃借している二階建家屋(敷地面積六六平方メートル、延床面積56.1平方メートル、一階六畳、四畳の二間及び台所等、二階六畳、四畳半の二間)で、忠、母富子(五三才)と同居し、被拘束者を監護養育している。

(二) 忠は名張市に二階建家屋(敷地面積二三一平方メートル、延床面積84.15平方メートル、一階六畳、八畳、4.5畳の三間及び六畳の台所等、二階六畳二間)を所有している。

(三) 拘束者は、現在海外旅行斡旋を業とする大韓民国の東方観光株式会社(オリエントエクスプレス・コーポレーシヨン)の大阪事務所に勤務し、昭和五二年七月一日現在月額七〇〇ドルの給与を受け、そのほか自ら海外留学手続の代行等を業とするA・P・エアワールドサービスなる事務所を営んでおり、そこから得る所得は昭和五一年申告所得が年一三三万五〇〇〇円であつた。

(四) 忠は東大阪市役所に勤務する公務員であつて、昭和五一年の年収は五四二万一〇〇三円であり、現在の被扶養者は妻富子のみである。

(五) 拘束者は仕事の性質上旅行が多く、留守がちであるが、富子は、約一〇年前に片側の腎臓の摘出手術を受けているものの、その後検査等のために約一か月に一回の割合で通院を続けてはいるものの、格別健康に異状はなく、日常拘束者に代つて被拘束者を監護、養育している。

(六) 被拘束者は、拘束者が帰宅すると拘束者のもとにとんでいき、また富子を「ママ」と呼び夜は添寝してもらうなどし、親戚縁者からも可愛いがられている。

(七) 被拘束者は、拘束者に米国より連れ帰られて以来、請求者を慕つて泣くようなこともなかつた。

(八) 被拘束者は、すでに言語能力もかなり発達しているが、日常生活において、もちいる言語はもつぱら日本語であつて、英語は殆ど理解できない。

(九) 被拘束者は現住地において近隣に多くの友達をもち遊び仲間を有している。

(一〇) 被拘束者は、昭和五二年(一九七七年)五月末ころの結核予防検診において初感染結核と診断され、近くの田中医院から投薬を受けているが、格別の異状もなく、元気一杯すごしている。

以上のことが認められ、他に右認定に反する疎明はない。

2 <証拠>を総合すれば、以下のことが認められる。

(一) 請求者は現在その両親と肩書住所に同居しているが、同住居は、父レイモンドの所有するもので、住宅街に所在し、敷地約七八五平方メートル上にある二棟の家屋の一棟であつて、三間の寝室と一間の居間それに台所等のある平家建であつて、被拘束者をひきとり、監護養育していくに十分に足りるものである。

(二) 請求者は、昭和五二年(一九七七年)八月ころまでは、米国カリフオルニア州シテイ・オブ・コマース、サウスイースタン通り一三五〇番地にあるスペシフイク・プレーテイング有限会社に勤務していたが、同年八月中旬ころより、ロスアンジエルス市西七番通り五一五番地クリントンズ・レストランに勤務し、カウンター、レジ係を務め、給料として二週間で税込二一二ドル(手取り一七三ドル三五セント)を得ているので、同地における物価などからしてみても、請求者が前記住居に両親と同居して被拘束者を養育していくことは十分可能である。

(三) 請求者は、拘束者が被拘束者を日本に連れ帰つたことにシヨツクを受け、その後しばらくは不眠や頭痛を訴え医師の診療を受けていたが、現在では健康である。

(四) 請求者は、被拘束者を引き取つた後は、勤務を休み被拘束者の保育に専念し、被拘束者を米国での生活になれさせた上で、一日五〇セントないし四ドル程度の費用で保育してくれる保育所が近くに数多くあるので、その一つに通わせるか、場合によつては勤務を辞めて、被拘束者が入学するまでレイモンドの経済的援助のもとに、被拘束者の養育に専念するつもりである。

(五) レイモンド(五一才)は、カリフオルニア州ロスアンジエルス郡の交通管理局に勤務する公務員であつて、一九七六年(昭和五一年)における年収は一万五一七八ドル五二セントであり、定年まで約一五年(年金受給資格あり)を余している者で、その妻(請求者の母四五才)ともども請求者が被拘束者を引き取つて一緒に生活することを望んでおり、請求者及び被拘束者の生活を援助する意思・能力を有している。

(六) 請求者には、姉と弟が各一人おり、姉は結婚し請求者の住む家屋と同一敷地内にある家屋に住み、弟も兵役終了後は請求者らと同居の予定であるが、その姉、弟ともに請求者が被拘束者を引き取り養育することを希望している。

(七) 被拘束者は、今迄請求者から引き離されていたため、請求者が母であることを忘れかけたかのように、余りなじんでいなかつたけれども、請求者と拘束者の間で成立した前示話合いに従つて請求者レイモンド、被拘束者、拘束者の両親らが名張の家で生活するために同所に向う車中で、請求者が被拘束者に米国にいたころの請求者と被拘束者の写真をみせたところ、被拘束者はその写真をさして「マリとママ」「これはママ、これはマリ」などと云つて請求者を母として認識し、請求者のひざの上に座つて歌つたり話したりし、レイモンドとも直ぐ親しくなつた。名張の家での生活により、富子の努力もあつて、被拘束者は請求者によくなじみ、「ママ、ママ」と呼び、富子を「大きいママ」と呼ぶようにもなつたが、富子の添寝の習慣から、夜の就寝時は請求者がいても、富子が一緒でないとねつかなかつた。

以上のことが認められ、この認定に反する証人富子の証言の一部及び拘束者本人尋問(第一、二回)の結果の一部は信用できず、他に右認定に反する疎明はない。

拘束者は、請求者の居住する地域は治安状態が悪く、人種差別のひどいところであつて、メキシコ系と日系の混血である被拘束者を養育するに適切な場所ではない旨主張するけれども、被拘束者を養育するに不適切な程に請求者の住所地の治安が悪く、人種差別が峻烈であると認めるべき疎明はない。

五 結論

ところで本件の如く夫婦関係が破綻している場合(本件請求者と拘束者の婚姻関係の破綻については、いずれに決定的帰責事由があつたか断定できない。)に、夫婦の一方が他方に対して人身保護法に基き、その共同親権に服する幼児の引渡を請求するときの当該幼児に対する拘束状態が不当なものであるか否かの判断は、夫婦のいずれに監護させるのが当該幼児にとつて幸福であるかを主眼として定めるべきを相当とする(最判昭四三・七・四民集二二巻七号一四四一頁参照)。

これを本件についてみると、前記認定の各事実からすると、拘束者・請求者の各両親の関係については、被拘束者に対する愛情、生活環境、養育援助能力、意思等につき優劣なく、請求者・拘束者各本人の被拘束者に対する監護・養育能力等については、拘束者は仕事の都合上旅行がちで留守をすることが多く、被拘束者の養育は拘束者の両親(特に母富子)に任せ切りで、あまり期待できないのに反し、請求者は被拘束者を引き取つた後は、被拘束者が米国での生活になじむまでの間は勤務を休み又は辞めて被拘束者の監護・養育に専念し、勤務を続けるとしても勤務時間中は被拘束者を近くの保育所に預けるが、その余の時間においては被拘束者と寝食を共にし、監護・養育に努めることを誓つており、請求者の方が拘束者に比べ、被拘束者を監護・養育する意思・能力・愛情において優れていると認めざるを得ない。

被拘束者が請求者を忘れかけていることや、英語が理解できないことも被拘束者の年令を考えれば、短期間に解決されることが期待できるので、被拘束者の監護・養育を請求者に委ねるにさしたる妨げとはならないというべきであり、また被拘束者は祖父母である拘束者の両親に監護され、現在、愛情面でも物質面でも満足すべき、平穏な生活をおくつているところ、被拘束者を請求者に引き渡すことによつて、被拘束者が一時的にせよ、心身に少なからざる打撃を受けることのあるのは容易に予測されるところで、決して好ましいことではなく、不幸ではあるが、巨視的に将来をも展望してみた場合、被拘束者をして、不自然にも祖母・富子を「ママ」と呼ばせて養育させるよりも、被拘束者にとつて実母である請求者の愛情のもとで養育される方が、極めて自然であつて、より大きい幸福があるとみるべきである。「祖母(ばば)育ちは三百文安い」「今のなさけがのちの仇」など諺にもいう、祖父母は肉体的には衰えていくので、孫の養育に十分耐えられなくなるし、若者の新しい感覚には追従できず、また子が成人して離れてしまつたさびしさから、とかく孫を盲目的に愛し、情をかけ易く、それが孫にとつて、後々の仇となつてしまうなど、一般に母親に比し、幼児の監護養育に適当であるとはいえないのである。その他、被拘束者を拘束者のもとにおいて監護養育させる方が請求者に監護・養育させるよりも適当であるという特段の事情も見当らないので、三才の幼児である被拘束者にとつて、実母である請求者の膝下で監護・養育されるのが最も幸福であると認めるのが相当である。

右事情に前記認定の拘束者が被拘束者を請求者のもとから連れ帰つた(米国から日本へおよび名張より東大阪へ)手段・方法をも併せ考えれば、拘束者の被拘束者に対する現在の拘束には顕著な違法性があるというべきである。

よつて請求者の本件請求は理由があるのでこれを認容し、人身保護法一六条三項により直ちに被拘束者を釈放すべきことを命じ、被拘束者が幼児であることから同人を請求者に引き渡すこととし、手続費用については同法一七条を適用して主文のとおり判決する。

(三井喜彦 中辻孝夫 水上敏)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例